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泣き虫てんぐの3倍パンチ

誰のことも傷つけない透明人間になりたい

もしもし

 

彼はゴール直前で眠っていた

残り50mくらいのところ

まさかここまでもつなんて…

危なかった

もっと手前で効くはずだったのに

 

スタート前に眠ってしまったら…

という危機感が急によぎり

直前になって薬の量を少し減らした

彼のタンブラーに溶かした睡眠薬

減らすべきじゃなかった

 

ともあれ彼は眠っている

少なくともあと二時間は大丈夫

きっと眠ったままだ

 

彼には昔から屈辱ばかり受けた

頭なら間違いなく私の方がよかった

家庭環境だってうちの方が裕福

なのに私の動きが少し遅いこと、

それだけを、たったそれだけのことを

大きく広げて馬鹿にした

みんなの前で侮辱し続けた

 

世界のうちでお前ほど

歩みの鈍いものはないー

 

そんな歌を笑顔で歌われた

あの日のことは一生忘れない

今日この賭けに勝って

長年の怨みを全部晴らす

全て終わりにする

 

彼の横を通り過ぎる

よだれを垂れ流しながら眠っている

それが深いことは確認できた

あと50m、いける

 

足からは血がでている

引き摺り続けた腹からも

もう痛みという感覚すらない

それでもこれだけ自分が動けること

それが意外で少し可笑しかった

気持ちだけでここまで動けるものか

 

晴れ晴れした気持ちだった

疲労感すら心地よかった

残り40m

 

昔は仲が良かった

よくふたりで海を眺めながら

何をするでもなく

色んなことを話した

楽しかった思い出には

常に君がいた、のに…

なのになんでこんなことになった

 

恐らくそれは彼の嫉妬だ

私は恵まれた環境下で順風満帆だった

失敗や挫折を味わったことがない

それどころか自分でも驚くほど

何をやっても全てうまくいった

毎日が楽しかった

 

しかし彼は違った

幼い頃は普通の家庭だったと思うが

いつからかそれは崩壊した

父親が暴力を振るうようになり

母親は彼を残し家を出た

貧困と苦痛に耐える姿を

幾度となく見ていたが

幼かった私にできることなど

ただ隣にいることくらいだった

 

この歳になったって

あのとき何がしてやれたのか

何を言ってあげらればよかったのか

正解なんて全く分からない

 

目がかすみはじめた

完走しきれるだろうか

大丈夫、手足はまだ動く

あと30m

 

ある日の会話が急に頭をよぎる

 

俺さ、お前が羨ましいんだ。

家のこと?

違うよ、まぁそれも少しはあるけど、

お前泳ぐの得意じゃん?

あぁ…でもお前は足が速いじゃん。

ちょっとくらい足が速くたって

そんなの何の役にもたたねぇよ。

親父から逃げ回るのに

多少役立ってるくらいのもんだ。

…そっか。

そんな顔するなよ、冗談だよ。(笑)

 

でさ、俺もし泳げたらさ

こんなとこ出ていきてぇんだよ。

どこに行くんだよ?

どこだっていいよ、ここじゃなきゃ。

………。

知ってるか?

俺たちが住んでるとこなんてさ、

世界ぜーんぶから見たら

点みたいなもんなんだって。

お前みたいに泳げたらさ、

俺どこにだって行けるのに…

 

何で今こんなこと思い出す

意識は朦朧としはじめた

勝ちは間違いない

あと20m

何がなんでも走りきる

 

頼みがあるんだけどさ…。

なに?

もし俺がもう限界だー!ってなって

頭おかしくなるくらい追い込まれたら

俺をここから逃がしてくれない?

…どこに?

だからどこだっていいんだって。

背中に乗せてさ、海を渡ってくれよ。

親父が追ってこれないとこまで。

んー多分大丈夫、できると思う。

やりー!やっぱお前はすげえなぁ。

お前が親友で良かったぜ。

 

なんだよそれ…(苦笑)

あと10m

 

じゃあさ、こうしようぜ!

俺耐えきれなくなったら

お前に合図送るからさ、

SOSってやつだよ、分かるだろ?

うん。

そうだなーじゃあ合言葉だ!

俺お前に「もしもし」って言う!

は?なんでもしもし?

携帯とかで連絡するときにさ、

最初にもしもしって言うだろ。

もしもしは始まりの合図なんだよ!

違うよ、もしもしは昔の

申す申すがなまった言葉な…

んなことはどうでもいいの!

とにかく俺はお前に向かって

もしもしって言うからさ

そしたら俺を助けてくれよ!

約束だからな!な!

 

うん、任せて!約束するよ!

 

一瞬で意識が覚めた

全身の血の気がひいた

あの時彼が笑いながら歌った、

いや今の記憶では違う

泣いてるように笑いながら

歌っていたあの歌は…

 

思わず後ろを振り返る

ぞっとした

彼の体がひどく痙攣している

薬が強すぎたのか

 

戻らないと

彼のところに戻らないと

いま死ぬ気で目指す場所は

ゴールなんかじゃなかった

 

彼を背中に乗せて

向かうべき場所は

 

 

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